「3.11」
震災により、かけがえのない生命を失った方々とそのご遺族の方々に対して、謹んで哀悼の誠を捧げます。
また、津波や原子力発電事故により、今も大切な故郷を離れて避難生活を送られている方々に対しまして、心からお見舞い申し上げます。
あれから2年を経て、現地はあの時とどう変わったのか、また今の自分に何が出来るのか。
自分で見て話を聞いて、色んなものを確認したいと思い、一人石巻市に行ってきました。
最初に2年前の3月17日、仲間や友人と共に炊き出しに行った、石巻西学校給食センター(旧東松島市矢本学校給食 センター)と鹿妻小学校に伺いました。
旧東松島市矢本学校給食 センターでは、自分でも被災に遭い、また家族が行方不明にもかかわらず、同じ被災者へ一生懸命食料を届けている市職員の方と一緒に炊き出しを行った所です。
その職員の方の働きぶりを見て、「公共の仕事の責任とその重さ」を目の当たりにしました。
この経験は今でも様々な場面で決断に迷った時頭に浮かんできます。
現在その職員の方はいらっしゃいませんでしたが、所長からお話をお聞きすることができました。
その後、鹿妻小学校に向かいました。二年前の鹿妻小学校での炊き出し時を覚えていた教師の方から感謝の言葉を頂き、 その後の学校の状況をお聞きしました。
あの時は千人を超える方が避難し、真っ暗闇の中で身を寄せ合いながら生活している話を聞きましたが(校舎の中には入りませんでした)、今では子供たちの笑い声と遊ぶ声が聞こえました。
2時30分からの石巻市の合同追悼式に出席させて頂こうと思っていたのですが、現地の駐車場で喪服で泣いている方々を拝見し、私なんかが行くことは失礼だなと思い、2時46分には近くの仮設住宅で黙祷を捧げていました。そのあと仮設住宅で現地の声を聞いてきました。
震災以前は家族や周りの人の命、またこの安心感のある生活や水や食料などの資源、電気やガスなどのエネルギーは当たり前のようにあるものと、どこかで思っていたかもしれません。
しかし、暗闇の中3人の子供達と家族で震えて過ごしたあの体験をし、当たり前に過ごしていた日常の大切さや、お金では買えないものの大切さを実感しました。
今、自分が被災地に出来ていることは大変微力です。ボランティアをしたり、募金をしたり、買い物で応援したり。議員としても出来ることは少なく、被災地支援の予算を審議することぐらいです。
しかしこの経験や被災地で学んだことを、愛する秋田県の今後の教訓にすることが、今一番自分が出来ることだろうの思いを強く持ち帰りました。
被災地に何度も出向き、現場を自分の目で見て応援し、それを秋田県に活かす。
微力ですが被災地と秋田のために全力を尽くします。
< 2011年3月17日>
二年前の3月17日、石巻市。いろんなところに車が散乱している。
ガレキが山積みとなっている。
スーパーの駐車場にも民家が流れている。
自衛隊がガレキを寄せてくれた道以外は入れなかった。
鹿妻小学校で炊き出しを行った。奥は同僚の沼谷純さん。
<2013年3月11日>
一回目の炊き出しをした旧東松島市矢本学校給食 センター。2年経った今はたくさんの方が働いていた。
2年前は千人 を超える方が避難していた鹿妻小学校。現在は子供たちの笑い声が響いていた。
仮設住宅。石巻市内だけでもたくさんの仮設住宅があった。住民の方から、仕事と収入に大変不安を抱いているとの話を聞いた。
まっさらの石巻港。建設現場で働く人や多くの機材が入り、少しづつ復興の兆しが見えた。